2006年07月03日
ジーコジャパン検証その3~歴史編~
2002年~2003年
ジーコジャパンは公約通り。稲本-中村俊輔-小野-中田英がトライアングルで
組む、4-4-2のフォーメーション、別名「黄金の中盤」を採用。
それ以外にも秋田や名良橋、服部など、フランス大会での主力を中心的に採用。
このときのスタメンは以下の通りである。
2002年10月16日 VSジャマイカ 1-1
GK楢崎
DF名良橋、秋田、松田、服部
MF稲本、小野、中田英、中村
FW鈴木、高原
ところがこれがデビュー戦となるジャマイカ戦で機能せず引き分けに
終わったことで雲行きが怪しくなる。
ベテランと若手の融合をにらみながら少しづつ入替をしていくのが
本来の手法であるが、この路線をジーコは半年間続ける。
そしてそこまでの成績が1勝2分3敗。しかも唯一の勝利が永井の
ごっつあんゴールで勝ったアウェーの韓国戦のみ。
そしてコンフェデ杯を目前にしたキリンカップでアルゼンチンに惨敗
したことを契機にジーコは一つの大きな決断をする。
選手総取っ替えである。
2003年6月11日キリンカップ VSパラグアイ 0-0
GK楢崎
DF山田、宮本、坪井、三都主
MF福西、遠藤、中村、中田英
FW大久保、高原
この試合勝利はできなかったものの内容的にはまずまずだったことで
以後ジーコジャパンの根本として定着する。この試合で抜擢された
宮本恒靖、三都主アレサンドロの2人はこれ以降レギュラーに定着する。
この頃からスポーツライターの西部健司が主張していた「セレクター論」
が注目される。この頃のジーコは選手交代をあまり積極的に行わず、
メンバーも殆どいじらないので、しかも結果も出ていないということで
采配に疑問をもたれていた。それに対する一つの考察として
「彼はモチベーターであり、セレクター能力に優れている。采配は微妙」
という評価だ。これ自体は今振り返ってみるとほぼ当たっていたといえる。
ジーコが成功を疑っていなかった黄金の中盤の雲行きが怪しくなったからこそ、
微調整を行ったと見るのが妥当では。
そして一度メンバーを固定するとしばらくいじらないのはこの頃から顕著で、
当時最も期待されていた大久保嘉人は結局1ゴールも上げることが出来なかった
ものの、年末の東アジア選手権までレギュラーで使われ続けている。
しかし2003年のジーコはさらに揺れる。コンフェデレーションズ杯で1勝2敗に終わり、
攻撃面ではそこそこの成果を上げながらも、守備の問題。つまり4バックのCBとしての
宮本恒靖の不安定ぶりと、今とは比べ物にならないくらい酷かった三都主アレサンドロ
の守備の軽さ。完敗に終わったコロンビア戦で終始この弱点を突かれ続けたことが
よほど堪えたのか、一つの大きな決断をする。
3バックの導入である。
これで望んだ東アジア選手権は2勝1分とそれなりの成果を上げる。
しかし、ジーコの本意ではなかったことは明らかで、その後事あるごとに4バックに戻す
繰り返し。3バックの導入がなければジーコは恐らく4年間勤めることは恐らくできなかった
ものの、最後までこの葛藤が決着されることはなかった。
この頃になると久保竜彦、遠藤保仁、坪井慶介などジーコジャパン上半期を支えた
選手たちがレギュラーに定着していく。もっとも、結果が出ない、選手選考の偏り、
海外組の重用など批判が渦巻き、ファンやサポーターのフラストレーションは
相当溜まっていたように記憶している。
2004年
ワールドカップ予選スタート。そして初戦のさいたまスタジアムで行われたオマーン戦。
2004年2月18日 FIFAワールドカップドイツ大会アジア地区1次予選 VSオマーン 1-0
GK楢崎
DF山田、坪井、宮本、三都主
MF稲本、中田英、中村、遠藤
FW柳沢、高原
この頃のメンバーで23人枠に残っていないのは山田のみ。
そしてこの試合で日本は守備を固めるオマーンを殆ど崩せない。
ロスタイムに久保のゴールでかろうじて勝利を収めたものの、
スタジアムは勝利に喜ぶ雰囲気とは到底思えないもので、
激怒しているもの、1次予選突破すら危惧するものを沢山見かけた。
恐らく、チーム最大の危機が訪れたのはこの頃だったと思う。
そして代表を揺るがす事件が二つ起こる。
代表合宿中に一部選手が夜の街へ繰り出し、騒動を起こした
キャバクラ事件、そして一部サポーターが主導して発生した
ジーコ解任デモである。
キャバクラに参加した人物は
山田卓、小笠原、久保、大久保、茂庭、都築、奥。
そして1人パチスロにいったのが
山田暢。
ジーコは彼らを代表から一度追放する。
その措置は正しかったと思うが、奥と山田卓、そして山田暢は
これ以降二度と呼ばれなかった。そしてこれ以降、右SBの
サブは一時期西が試されたものの、それ以降は加地亮が
レギュラーとしてほぼ使われ続けることとなった。
そんなゴタゴタの中アウェーのシンガポール戦で大苦戦。
2-1とかろうじて勝利を修めるものの、代表の雰囲気が恐らく
一番悪かったのはこの時。ライターやネット界隈で解任論は
相当に高まっていたし、川淵氏もこの試合が引き分けで
終わっていれば解任するつもりでいたそうだ。
そして事件は起こる。ネットの著名ブロガーサポーターの有志が集まり
企画された「ジーコ解任デモ」である。
実際に参加した人数は50数名とのことだったが、
人数の大小よりも、大手マスコミでは批判がタブーだったジーコ批判を
(実際はJFAが言論統制をしていたがこれはまた別の機会に)
サポーターが、しかもネット発だったということでインパクトは大きかった。
マスコミが大きく取り上げJFAやジーコがコメントをする事態となったわけで
プレッシャーをかけるという意図は成功したのではないか。
(この後ネットからイベントを行うということが一般化され、ブログの
価値が急速に高まった。ますたろう氏、UGタン、ケットシー氏などは
今やヘタなライターよりもはるかに知名度があるもんね)
追いつめられたジーコジャパン。しかしここからジーコは意地を見せる。
ちょうどこの時期に欧州遠征が組まれ、まとまったメンバーで一定期間
戦術練習が出来たのも大きかったようだ。欧州遠征は2勝1分1敗の
好成績を残し、中でも強豪チェコを破り、イングランドに引き分けた2試合は
結果だけでなく内容も良く、開催が決まっていた第2回ジーコ解任デモを
中止に追い込むほどだった。
そしてジーコジャパンのターニングポイントとなるアジアカップへ。
初戦のオマーン戦で一方的に試合を支配されるも中村のゴールで
辛うじて勝利。前途を不安にさせる船出だったが、決勝トーナメントに
入ってからは奇跡の連続。
PK戦にもつれこんだヨルダン戦は中村と三都主が連続で外し
追い込まれるも川口のスーパーセーブで逆転勝利。バーレーン戦は
点のとりあいを制し、ファイナル中国戦は完勝。
見事アジアカップ2連覇を達成したのだった。
2004年8月7日 アジアカップ2004 決勝 VS中国 3-1
GK川口
DF宮本、中澤、田中
MF加地、中村、三都主、中田浩、福西
FW鈴木、玉田
玉田のブレイク、攻守に渡る中澤の神っぷり。
師匠の前線でのキープ&ファウルもらって俊輔のセットプレー
という黄金パターンwで勝ち上がるなど試合内容でも見るべきところが
多く、試合ごとに大ブーイングを浴びせる中国の超アウェーの中で
優勝を勝ち取ったといういろんな意味で価値のあるタイトルだった。
その後オマーンのアウェー戦も師匠のゴールで完勝。
1次予選も通過を果たし、4年度後半は終わってみれば充実の年となった。
なお、サッカー専門新聞 エルゴラッソが10月8日に創刊されている。
2005年前半
ワールドカップ最終予選開始。アジアカップの優勝はほぼ国内組中心に
よってもたらされたことによりジーコの心境も変化したのか、中村俊輔を
おしのけて初戦の北朝鮮戦は小笠原が先発する。彼が先制のFKを
たたき込み、ロスタイムに初キャップのやはり国内組大黒がゴールし辛勝。
海外組優先の構図がついに崩れたかと思われた。
しかし中田英寿を招集したイラン戦は突如4-4-2で小野、中田英、俊輔を
配した「黄金の中盤」が復活。案の上機能せずに1-2で敗れた。
その後は宮本が4バックに異を唱えたこともあり予選中は全て3バックで通す。
ホームのバーレーン戦は押し気味に戦いながらもオウンゴールでの勝利。
壮行試合の意味合いが強かったキリンカップでは連敗。しかも切り札として
期待された小野伸二が骨折で離脱。最悪の雰囲気の中で迎えた
アウェーのバーレーン戦だったがここでチーム一丸となり小笠原のゴールで勝利。
2005年6月3日 FIFAワールドカップドイツ大会アジア地区1次予選 VSバーレーン 1-0
GK川口
DF宮本、中澤、田中
MF福西、中田英、中村、小笠原、加地、三都主
FW柳沢
中立地の北朝鮮にも圧勝し、世界で最も早くW杯出場を達成した。
その後のコンフェデ杯でもメキシコに敗れたことが響き準決勝進出は
ならなかったものの、欧州王者ギリシャに勝ち、ブラジルに引き分けるという健闘。
2005年6月22日 FIFAコンフェデレーションズ杯 VSブラジル 2-2
GK川口
DF田中、宮本、三都主、加地
MF中田英、小笠原、中村、福西
FW玉田、柳沢
ここまでは非常に順調にことが進んでいた。そう、ここまでは。
2005年後半~2006年
どのチームよりも早くつかんだW杯切符。ならばこの残り期間を
強化に有効に充てようとするのは当然のこと。ここからは強化試合を
行いながら新戦力を探すこととなる。ところ協会のマッチメイクのまずさから
2005年後半はまともな強国と対戦できずに終わり、新戦力もアンゴラ戦で
ゴールを決めた松井あたりしか出てこなかった。
年が明けた最初の米国戦で完敗を喫するも、巻がゴールを決め一矢を報いる。
GK川口
DF田中、宮本、中澤
MF三都主、加地、福西、小笠原、遠藤、小野
FW久保
この時は気づかなかったが、最終予選殆ど試合出場の無かった小野伸二、
久保竜彦、遠藤保仁の生き残りテストが始まっていた。今にして思えば、
この時ゴールを決めた巻は強烈なインパクトを残したのだろう。
その後も長谷部、佐藤寿人、阿部勇樹などが台頭。
それ自体は悪いことではなかったが、相変わらず試合事に
システムを4バックと3バックを使い分けること、海外組が
リーグの終盤に入って招集がままならないこともあり、
試合を重ねる割には戦術が浸透していかないという悪循環が続いた。
結果、チームとしての積み上げというよりは生き残りが主眼と
なってしまい、当落線上の選手たちがアピールを繰り返すという
強化とは言い難い流れのまま5月の代表発表を迎える。
遠藤、小野は最後のキリン杯でそれなりのアピールに成功。
一方久保はコンディションが最後まで戻らなかったことが
土壇場で巻に抜かれてしまう結果となった。
メンバーが固まった以上、必要なのはコンディション及びメンタル面の向上。
豪州戦のスタメン、システムがかなり早い段階からジーコがバラしていただけに、
チームとしてもモチベーションが上がりつつあり、良い流れで最終調整のドイツ戦を迎えた。
2006年5月30日 VSドイツ 2-2
GK川口
DF宮本、中澤、坪井
MF中田英、中村、福西、加地、三都主
FW柳沢、高原
高原の2ゴールで一時2点リード、中村と中田英との連携から何度も
決定的チャンスを作る。加地の怪我というアクシデントはあったものの交代出場の
駒野の奮闘、終盤までDFラインが持ちこたえたことなど、土壇場に追いつかれた
という課題を差し引いても出色の内容といえた。普段辛口のコメントが多い中田英
すら「最高の試合」と自画自賛していたほどだ。
しかし健闘の代償は大きく、中村、高原、柳沢、加地が負傷することとなる。
特に柳沢と中村は最後までコンディションが戻らず、加地に至っては初戦を
欠場することとなった。
このドイツ戦のマッチメークが悪かったとは思わない。ただ、この結果に対して
彼らを欠いて戦うオプションがジーコにはなかった。これが最後の最後で致命的に
なったといえる。
そして2006年6月23日対ブラジル戦で、ジーコジャパンの4年間は幕を閉じた。
6月23日 FIFAワールドカップ グループF VSブラジル 1-4
GK川口
DF加地、坪井、中澤、三都主
MF中村、中田英、稲本、小笠原
FW巻、玉田
最後の最後でほぼ黄金の中盤が復活したのはある意味ジーコジャパンに
ふさわしい最後といえる。流れを振り返っていくと停滞したのは
就任当初からの1年半、そして本大会出場権獲得後の1年だ。
・最後まで固まらなかったシステム
・一部選手、及び海外組への偏重起用による選手層の薄さと
戦術選択の少なさ
・無駄に使われた最後の半年間
やっぱこの3点が大きすぎたな…。良い時は選手達自身で
修正や改善が出来る良さもあるチームだっただけに、
最後の一ヶ月だけでももう少し何とかできれば、少なくとも
もう少し良い形で終えれたろうにね…。
メディアではSTARSOCCERが2006年1月17日に、
サッカーJ+が2005年8月11日に創刊。
FOOTIVALが2006年6月をもって休刊。
投稿者 たか : 14:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
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